59年の足跡
丸山敏雄小伝
農家の四男に生まれる
丸山敏雄は、1892(明治25)年、福岡県上毛郡(現豊前市)の天和と呼ばれる里に、農家の四男として生まれた。
父・丸山半三郎は熱烈に浄土真宗を信仰し、地域の世話役も務めていた。百姓仕事に汗を流しながら布教に歩き、他人の世話をする姿に、村人の信頼は厚かった。
その父親から、敏雄は厳しいしつけを受けた。神仏を拝むことを徹底して叩き込まれ、寺詣りや信徒の会合にも連れていかれた。
「信を取れ(不動の信仰心を得よ)」が父親の口癖だった。家の跡継ぎではない敏雄には、僧侶になってほしいというのが両親の願いだった。
父の教えになかなか馴染むことができなかった敏雄だが、学業は非常に優秀であった。家で本を読むのは農業の邪魔だと禁止されていたので、そのぶん授業に集中した。
「教科書に書いてあることはみな知っていました。どこにどんな字があるかまで。家に帰ると働かねばならないので、学校で先生のいわれることを一所懸命聞いていなければ、わからぬ道理です。ですから、一時間ずつがおもしろく、ありがたく、終るのが惜しかった・・・・・・というありさまでしたが、これもみな、親たちが、ただただ働くことを徹底的に教えてくださったおかげだと、私は今、心からうれしく感謝しております」
池に溺れた体験
10歳の時、1歳年上の従兄と神社裏の池で遊んでいて、溺れたことがある。近所に住む高橋孝六さんという青年に助けられて、その恩を深く感じる経験をしている。
その時二人は、池の中の大きい石まで行ってみようと、浅瀬を歩いていた。先に歩いていた従兄がさっと深みに沈み、助けるつもりで自分も沈んだ。
上方に水面が見え、〈ああ、沈んでゆく、これで死んでゆくのか・・・・・・〉と思ったが、底に足が付いて浮き上がり、水面に頭が出た。息をしてまた沈んでゆく。眼前の光景はそれまで見たこともない美しい世界だった。浮き沈みを繰り返す間に、はっと体を支えられ、高橋さんに助けられていた。従兄も他の村人に助け上げられた。
命を助けられた「恩の意識」は、父親の「信を取れ!」という声とともに心中深く刻まれ、後の進路に影響してゆく。
「子供の時は恥ずかしいので、直接お礼など言ったことがない。池の堤に上がると、高橋さんの家が見える。すると、その家をみつめ、目に涙を浮かべて頭を下げた。(中略)このことは、私に忘れることのできないものを焼きつけた。それは、『自分はもうあのときに死んでいたのだ。助けられて生きた命だ。このままではいかんぞ』という、深い何ともいえぬ決心であった」