倫理の道標
丸山敏雄の発見した幸せになる生活法則
35. 泣きたいときには泣け
後悔、悲しみ、悔しさ、喜び、憤慨、さまざまな時に人は涙を流す。
感情の高まりは無理に抑えない方がよい。
素直に泣けば、次のステップが開けてくる。
大森金次郎という社長がいた。目の中に入れても痛くないほどに溺愛した息子がいたが、ある日、風邪をこじらせ急死してしまった。大森は、絶望のあまり体に変調を来し、口の中がただれ、お茶も飲めなくなった。もちろん仕事も手につかない。
敏雄を訪ねて、悲しみを訴えた。一部終始を聞いて、敏雄はぽつりと尋ねた。
「大きな声で泣きましたか?」
大森は、内心、男は泣くものではない、悲しんではならぬ、と思っていた。
「いえ、泣きません」
「なぜ、泣かないのですか?」
「私には泣く場所もありません。私が涙をみせると、家内も娘も泣きくずれて、収拾がつかなくなってしまいます」
「では、隅田川のほとりへでも行って、声を上げて泣きなさい。一人息子を失くして、悲しくないわけがない。存分に泣きなさい」
大森は、隅田川の堤へ飛んで行った。そして、死んだ息子の姿を思い浮かべながら、声を張りあげて男泣きに泣いた。涙も涸れ尽きたかと思われるほど、泣いて泣いて、泣き通した。もちろん悲しみがなくなったわけではない。だが、気分がすっきりして、いくらか元気が出てきた。口の中のただれは、すっかり治まっていた。
怒るべき時に怒らない。喜ぶべき時に喜ばない。笑えばいいのに笑わない。そんな人に限って、つまらないことに怒り出す。どうでもいいことに悲しむ。自分の感情に素直ではないのだ。体面をとりつくろい世間体ばかり気にしている。喜怒哀楽の豊かさは、人間性のバロメーターである。
孔子の弟子の中で、師の信頼が最も厚かった顔回が、三十そこそこの若さで早世した。その時、孔子は「天、我を滅ぼせり」と、身悶えして泣き明かした。気が違ったかと弟子が心配するほどだったが、それはまさしく孔子の説く「仁」のほとばしりの姿でもあった。
泣くことによって心の痛みや傷が癒され、気力を取り戻すケースはよくある。泣きたい時には泣くのがよい。
涙にもさまざまな涙がある。怒りの涙や恨みの涙、悔し涙は、毒素となって体をむしばむばかりか、人をも傷つける。これらは、不幸に結びつく暗い涙といえる。
逆に、嬉し涙、ありがた涙、熱い涙は、幸福につながる良い涙の部類に入る。
なかには、泣くことによって内面が浄化され、人間性が一変する涙もある。
自分のわがままから発した暴言や冷たいひと言、心ない仕打ちが、どれだけ相手の心をひどく傷つけ、悲しく辛い思いをさせたことか・・・・・・。その罪を懺悔する時、込みあげてくる嗚咽と慟哭。亡き父母の位牌にひれ伏して詫びる涙、また妻の前に身を投げ出し、時に社員に首を垂れる。子に詫びることもある。涙に明け、涙に暮れる日々。
こうした境地を、敏雄は「涙の洗浄」と称して、こう解説する。
この時、あらゆる我情は、洗いさられた明澄至純の心境に達する。家が変わり、環境が変わり、人が変わる。世界が清められる。これ正しく倫理の世界における心境の登龍門である。人生の真実、実在の一角への突入である。
理性に基づく知的反省は、頭の遊戯に過ぎない。人間の本性が根底から変わろうとする時は、必ず涙を伴う。泣くことは人格を変容させ、純化させるのだ。