倫理の道標
丸山敏雄の発見した幸せになる生活法則
42. 拝む形の大切さ
「礼儀正しい」よりも「無礼」な方がよいのか?
「けじめがある」よりも「だらしない」方がよいのか?
決してそんなことはない。「形」を尊重しなければ、獣と変わるところはない。
拝むことができるのは、人間だけである。崇高な形式を軽んじていいのか。
早朝、弟子の一人が丸山敏雄に挨拶をしようとした。
敏雄は、「まず、神様にお参りをしてから・・・・・・」と言い、神棚に向かって礼拝した。その後改めて「おはよう」と挨拶した。
人はなぜ、神仏を崇め尊ぶのか。
目に見えない相手に頭を下げ、手を合わせる。考えてみれば奇妙な行為ともいえる。しかし、現実には、初詣、七五三、お彼岸等々、科学万能の現代にも、神仏に向かい合うことは多い。意味あるものとして、私たちの生活の支えであるのも事実である。
彼が信じた神。それは日本の古典神話に登場する天照大神であり、その象徴としての太陽であった。彼は、毎日、玄関の前で太陽に一拝し、それから二拍手をして何ごとか祈念する。それが敏雄の日課であった。
礼拝の時が、ちょうど通勤通学の時間にあたることがあった。近くの高等学校へ通う生徒たちが不思議そうな表情で、太陽を拝む人の姿を眺めやることもあった。太陽が昇ってくるのは学生たちの列の方向。学生たちから見ると、自分たちが拝まれているようにも見えた。
中には、横目で冷笑していく者もあった。しかし、本人は、まったく意に介さない。気にするとか、恥ずかしいなどという考えはない。一意専心、そこには己が信じる対象への一直線な思いと拝む姿のみがあった。
一方で、神社や寺院を通り過ぎる時は、必ず立ち止まって敬礼し、道端の地蔵尊にも手を合わせるなど、その礼拝は日常的で自然であった。敏雄にとって神仏とは、威儀を正すべき畏怖の対象であったと同時に、親しむべき身近な存在でもあった。
拝むという行為は、信仰心の表れにほかならない。深い信仰心は、自然と敬虔な拝む姿となって表れる。
人智を超えた偉大な力に対する人間の畏怖の感情と謙虚さ。もし、これをなくした時、人はどうなるのだろうか・・・・・・。心や生命といった目に見えないものに対する感性が、衰えくていに違いない。そうして、あらゆるものに宿る「命」に対して傲慢になり、生命を冒瀆するようになる。人心は乱れ、道義が荒廃していく。
見えない聖なるものを見つめる習慣を身につけ、感じる力を養い、それに頭を垂れる謙虚さは、人が人となり、真に豊かな生活を送る上で、ぜひとも必要だ。
そのためには、まず生活の中に礼拝の場を設けるとよい。そして日々親しむことである。日本の家庭には、神棚と仏壇が共存し、生命のルーツにアクセスする機能を果たしている。祖先の御霊、神、仏に心を通わせ、親しむ場を設けることは、自らの生命の根を強く太くし、清新にする。
目に見えないものを敬するにはコツがある。それは、「見立てる」こと。そのものがそこにあるかの如く振舞うことである。人に対するのと同じように、礼を尽くして一定の「形式」をとることは、神仏への敬信を高めることにつながる。