59年の足跡
丸山敏雄小伝
熱烈な向学心
高等小学校を卒業した敏雄は、受け持ちの教諭のすすめもあって、僧侶の道ではなく、教師の道を進むことになる。代用教員として初めて教壇に立ったのは、わずか16歳の時であった。
働きながら勉学を続け、正規の教師の資格をとるために小倉師範学校に進学。学内には修養の雰囲気が充ち満ちて、互いに切磋琢磨する空気が、敏雄の生来の向上心に火をつけた。
学友の「偉大なる友」という手記に次のような一文がある。
「丸山君が習字に没頭し出したぞと気のつく時は、もう鳴鶴先生(書道を師事した西川萱南)の千字文を十数冊もあげて学年のトップ。次は音楽、とてもやかましく鍛う先生だったが一人丸山君は敢然挑んで先生に推賞さるる成績をあげた。それから弁論部に入って演説の稽古をはじめた。誠のこもった話し振りと、磨かれた心の発露は学校を代表する権威となった。学年の進むに従って、人物はもちろん、学業はだんぜんトップで他の追従を許さぬというに至った。卒業の際はあっぱれ首席で、感謝の答辞を原稿なしに鮮やかに赤心を吐露して、満堂を感激させた」
決して点取り虫ではなく、真摯果敢な向上心、温和な人柄と篤い人望を備えた敏雄には、いつしか「孔子丸山」というニックネームがつけられた。
卒業後は故郷に戻って小学校に勤務、3年後にはさらに上級の教師を目指して広島高等師範学校に進んだ。
37歳の大学生
1920(大正9)年、28歳で広島高等師範学校を卒業。郷里に近い福岡県立築上中学校の教諭となる。
「歴史とは、できごとをいちいち覚える科目ではない。歴史を通し、人間を、私たち自身を作る科目である」。東洋史担当の新任教師として、敏雄は生徒たちに熱っぽく語った。
その年の7月、神崎キクと結婚。久留米の中学校を経て、1925(大正14)年には34歳で長崎女子師範学校の教頭として赴任する。全国で最年少であった。
責任感あふれる若き教頭を職員も生徒もこぞって敬慕した。
しかし敏雄は、二つの大きな苦悩のために教職から去り、大学進学の道を選ぶ。1929(昭和4)年、広島文理科大学に再入学。すでに37歳、二人の男児の父親になっていた。
なぜ教師生活から再び学生に戻ったのか。一つは、研究の行き詰まりであった。敏雄は教育者であるとともに、日本古代史、日本の国体についての研究者でもあった。
当時、左翼運動が勃興し、「歴史は科学で説明できなければならない、そうでないものは抹殺すべきだ」という論調が強まった。日本神話も、目的に引きつけた作り話であると主張する者がいた。ならば古代史は根底から覆され、国体は根拠を失うことになる。
二つ目の苦悩は、長崎で出会ったカトリックの生徒たちの熱烈な信仰心だった。
〈あれほどの不動熾烈な信仰を、うら若い乙女たちがどうして持てるのだろう〉
〈自分の国体に対する信念など、それに比べれば軟弱でしかないではないか・・・・・・〉
自分には歴史教育者として不抜の信念が欠けていた、このままではとても教師など務まらないと痛感した敏雄は、苦悩の末に腹を決めた。
「かゝる不当の学説を一掃すると共に国体に対する不抜の信念と哲理とを把握し、之によって宗教的安心立命の境地にまで到達するには大学に入って斯道の大家に就いて国史国体の研究をする外ないと決心しました」