丸山敏雄ウェブー倫理運動の創始者 その生涯と業績

59年の足跡

丸山敏雄小伝

幾多の困難を越えて

1947(昭和22)年10月には、社団法人の認可を得て「新世会しんせいかい」(のちに「倫理研究所」と改称)を発足。草創期の困難を踏み越えながら、敏雄は、さまざまな活動を展開していった。
膨大な執筆、講演、指導の数々。純粋倫理のエッセンスともいうべき17カ条を抽出し、『万人幸福の栞』をまとめた。それは、人生の難問を明快に解決する集大成であった。純粋倫理の体系化をはかるべく、さらに心血を注いで数々の論文を書き綴った。
日に日に増えていく共鳴者に、実践を呼びかけ、個々の指導も怠らなかった。
気がかりは、指導者の養成である。教育は苛烈を極めた。誰もが持つ「玲瓏れいろう玉の如き心奥の純情」を悟らせるために、質問―叱咤、質問―答え―叱咤と続けざまに行なって、虚飾をぎ、うぬぼれを捨てさせ、頑固迷妄の硬い殻を破り、慟哭に至るまで追い詰めた。
あまりの激しさに脱落する者もあった。
しかし、最も命を縮めたのは敏雄自身である。彼は、休むことをしなかった。次第に咳き込むようになり、所員、家族の心配はつのった。
1951(昭和26)年2月、夫人とともに伊勢神宮に参拝。所員の心境向上と倫理研究所経済の確立と「真に倫理を実践せんとするものが、むを得ざる急の場合、もし本人が至誠を傾けて祈願するならば、本人の身にふりかかりし危難、苦痛を自分の身に代らせ給え」と祈願した。
「身代り」を誓ったその通りに、体調はいよいよ悪化していく。

講演する丸山敏雄

昭和25年10月、創立3周年記念大会での講演は「人類の黎明」と題し、1時間20分にもおよんだ。

静かな終焉

声がかすれ、物が喉を通らない。やせ衰え、病状が悪化しても、朝、3時には起床。読書し、原稿を書き、書の手習いを欠かさず、歌を詠んだ。神に誓い、また太陽を拝んだ。
母キクとともに父の臨終を看取った長男竹秋の手記が、最期の様子を伝える。

私は父の左手をとって、もみはじめた。だが、私はもむのは下手だった。父は、『あるがままにもめ』と言った。私は、とほうにくれながら、ただ無茶苦茶にもんでいた。そのうちに、母が部屋に帰ってきた。そして、私とかわろうとした。と、息づかいが、いっそう荒くなって、何か言いかけた。聞きとれなかった。「何ですか?」と母は大声でさけび、耳をすりつけた。父は、「いそぐな・・・・・・さきのことを心配するな・・・自然にまかせて処置をとれ・・・・・・。これでよい・・・・・・。よろこべ・・・・・・」とかすかに言った。私は、このとき、はっきりと覚悟をした。不思議に、すこしもうろたえた気持はなかった。冷静に、父の言葉の通りにしよう、と思っただけだ。父の呼吸は、すこし落ち着いたようだった。
十二時四十分ごろであろうか、息が、はなはだしく荒くなってきた。ふたたび、汗がにじんできた。いよいよ、最後だなと私は直感した。そして、宇宿うすきさんのところに急いでゆき、「どうもへんですから来て下さい。最後かもしれません」と言って、来てもらった。
それからすぐ、極度に息は荒くなった。そして、ほんの一瞬間だけ、何とも言えぬほど悲しそうに顔をしかめた。だが、その顔はすぐもとにかえった。眼の瞳孔がひらきかけたのを、私は明らかにみた。そしてある瞬間、息をはきだそうとしたときに、痰がのどにつまり、そのまま息が止まった。

私は、すばやく父を抱くようにして、「死ぬものかッ」と、大声でどなった。母も、何かさけんだ。「せんせいッ」と宇宿さんも、さけんだ。「口をすったら・・・・・・」と、母は口をつけて痰を吸いだそうとしたが、だめだった。私もつづけて、口をつけ吸ったが、ひらいた父の口のほうが大きくて固く、スースーと空気が入ってきて、役にたたなかった。
私はあきらめて、手首をにぎった。脈は、なかった。そして、青い安らかな顔が、目をひらいたまま横たわっていた。
午後、零時四十二分であった。

1951(昭和26)年12月14日、「人の苦しみをわが身に代える」ことを誓願しつつ、敏雄は静かに59年の人生に幕を閉じた。「急ぐな、さきのことを心配するな、自然にまかせて処置をとれ。これでよい、喜べ」――その全生涯を真理の探求と人類の幸福に捧げた敏雄の臨終の言葉である。