燃焼
倫理運動の軌跡
「新世会」の発展
昭和24年になると、機関誌『文化と家庭』は『新世』と改題され、戸別訪問による頒布で発行部数が少しずつ伸びていった。先の生活法則17ヵ条が完成し、倫理運動の基本テキストとなる『万人幸福の栞』が出版される。
「新世会」が主催する初の倫理講演会は、5月に500名の参加者を得て台東区役所講堂で開催された。支部の数は第1号の上野をはじめ、全国に30ヶ所と増えていった。さらに特筆すべきは、朝の活動がスタートしたことである。
4月1日、丸山敏雄は所員を早朝6時に集め、各自が所感や決意を述べ合ったり、書道の稽古をする場を設けた。朝の心境向上会である。その集まりが非常に成果をあげたことから、秋には各支部でも「朝起実践会」が行なわれるようになった。集いの終わりには「今日一日、朗らかに、安らかに、喜んで、進んで、働きます」と誓いの言葉を全員で斉唱して締めくくる。現在では「おはよう倫理塾」と呼ばれるこの勉強会は、倫理運動を支える大黒柱となっていった。
早朝の勉強会と共に、倫理運動を支える原動力となったのが生活指導である。丸山敏雄は時間の許す限り、悩める人の指導に応じた。指導を通して、不自然な心持ちやわがままな生活態度を指摘され、本人が真心から受けとめて改める実践に取り組むとき、苦難は自ずから解決していく。敏雄は自在に指導し、多くの人びとの苦悩を救った。
峻烈な教育と苦悩
「新世会」の発展に伴って、丸山敏雄の日常は多忙をきわめた。著述、研究、地方出張も含めた講演会や座談会、書道や短歌の添削指導、愛弟子の教育、来客の応接、生活指導・・・・・・。会友の指導ができる所員も5人となり、さらに増えようとしていた。
その所員の一人に、上廣哲彦がいる。昭和21年から敏雄を慕ってしばしば身を寄せてきた彼は、やがて北陸の普及活動の担当を命じられる。本名を三郎といい、乞われて敏雄が「哲彦」の名を与えた。抜群の指導力を発揮する上廣に、敏雄も信頼を置いていたが、高慢になりがちな心ふるまいをしばしば厳しく注意している。
昭和25年になって上廣は豹変したかのように恩師を批判したり、不穏な動きを見せるようになった。担当地域の普及方法を自分に任せてもらいたいとも要求した。「未だ時期が早い」と許されなかったことを不満として次第に遠ざかり、やがて別の自分の組織(実践倫理宏正会)を作るようになる。その間、敏雄は苦悩しつつ、幾度となく注意し、指導し、血涙を絞って書いた書簡を投じたりしたが、ついに翻意を促すことはできなかった。
教育の最大の課題は後継者の養成である。発展する「新世会」において、自分に代わりうる指導者を育成することは大切な仕事であった。敏雄は日常生活の中で愛弟子たちに対し、峻烈かつ愛情あふれる教育を施していった。しかし時に不眠不休で続けられたその行為は、確実に敏雄の命を縮める結果となった。
身代わりの誓いに生きて
昭和26年2月19日、丸山敏雄は夫人を伴い、伊勢神宮へ旅立った。
1月に大病をして衰えていた体に月刊誌などの多くの荷物を詰めたトランクの重さはこたえた。敏雄は他の参拝者の邪魔にならないように、脇に寄って靴を脱ぎ、土下座した。『新世』と『万人幸福の栞』を前に置き、長い時間をかけて真剣に拝んだ。
敏雄は何を祈誓したのか。半紙にしたためられたそのときの「誓詞」が没後に発見されてわかった。倫理運動のさらなる発展のためいよいよ身命をかけて努める誓い、倫理の研究を多方面からいっそう深める決意、そして人の苦痛を自分の身に引き替えて受ける「身代わり」を行なうことが、毛筆で書かれていた。
神宮の参拝を終えてからは、日々の誓いの中でいよいよ精魂を込めて「身代わり」の祈誓が捧げられた。
もし今後 倫理の宣布普及にまことをつくす人等が 知らず識らず 理をあやまり倫にもとり 人をそこなふようなことがありましたならば 何卒この身をせめさいなみ苦しめたまへ たとへこの身は如何ようになるとも更に厭いません故 あやまれる者共を 一刻もはやく正道に引きかへさせ給へ
敏雄の肉体はやせ衰え、咳が止まらぬ苦しみに耐える日々が続いた。その衰弱とは反対に、倫理運動は着実に広がり、会友や支持者の数は増えていった。
10月14日、千代田区の共立講堂で「新世会」の第5回総会と会員大会が開催された。総会において「新世会」は名称を「倫理研究所」に改めることを決議。病身をおして参加した敏雄は、「人類の朝光」と題した講演で熱弁を奮った。それが人前で行なった最後の講演となった。
昭和26年12月14日、敏雄は60年に満たない人生に終止符を打った。