丸山敏雄ウェブー倫理運動の創始者 その生涯と業績

日記

永眠するその日まで

丸山敏雄にとって、日記を付けることは小学生以来の習慣でした。
一度始めたことは、終始一貫してやり通す。日記もその例外ではありません。生涯にわたり一日も休むことなく、永眠するその日の朝まで書き続けました。

最後の日記

最後のページ。5日前に「12月」を「11月」と書き間違えてから、以降「11月」となってしまっている。

日記にみる不撓不屈の精神

丸山敏雄は、起床直後に日記を綴りました。前日の一日を顧みて記録するのが慣例でした。
したがって、最後の日付となった昭和26年12月13日は、実は亡くなるその当日、14日の朝に記したもので、文字どおり、これが「絶筆」となりました。

11月13日 晴 静
今朝 食事 最低限
午后食堂でビニイルシキ
膝を(の)下をにえ湯にてあらふ いゝ気持
但但体力へり 便所に入っても
立つことが出来なく・・・・・・
(昭和26年12月13日の日記より/原文ママ)

その筆跡はさすがに乱れ、手の震えや体の不自由を押して、最後の気力を振り絞ってしたためた形跡がうかがわれます。
敏雄は倫理運動を創始する際、当時、大分バスの社長だった佐藤恒彦氏に、借金を申し入れていましたが、佐藤氏はこれを快く引き受け、有力なスポンサーとなっていました。しかし、運動の見通しは誰にもつきません。雑誌の頒布は難渋しましたが、敏雄は一人、4、5年かけてこつこつと返済を続けました。息をひきとる2日前、ついにその返済は完了の時を迎えたのでした。
日記の最後のページには、茶褐色の薄い紙が貼ってあります。佐藤氏への最後の送金を証明する、郵便局の「受領書」です。敏雄はこれを書いた直後に再び床に入り、午後12時42分、永眠しました。まさに丸山敏雄らしい見事な収拾のつけ方でした。