趣味ある生活
丸山敏雄が見た風景
丸山敏雄は、たんなる教育者・研究者にとどまらず、「忙中の閑」を楽しむ達人でもありました。若い日に著した「趣味教育」(広島高等師範学校卒業論文)ではこう述べています。「人格は趣味の背景を得て、その美を増し、重きを加える。趣味を有せぬ人格は舞台なき演劇のごとし」敏雄の多彩な趣味をご紹介します。
スケッチ Sketch
丸山敏雄が少年期から青年期にかけて得意としたのは、スケッチでした。
高等小学校に通っていた12歳、敏雄は一人の教師から絵の手ほどきを受けます。もともと素質があったのか上達が早く、のめり込んで展覧会にも出品するようになるなど、当時は画家になることを真剣に夢見ていました。
小倉師範学校に進んでからも絵筆とスケッチブックを片時も離さず、美術部に籍を置いてスケッチを学びました。
さらに広島高等師範学校に進んでからは、原坦山に本格的な日本画を伝授されました。青年時代には華村・師古・暁波などの雅号をもちいて、多くの山水を描き残しています。
大人になっても、どこへ行くにもスケッチブックを持って出かけました。敏雄の画帖は10冊近く残っており、どれも使用した期間の日付が明記され、水墨画、鉛筆書きのデッサン、水彩画など、思いのままに描かれています。
篆刻 Seal engraving
「こゝに幾十年来の宿望達し、目出たし」とは、篆刻に入門した日に書かれた敏雄の日記です。敏雄は秋津書道院(現秋津書道会)で書道を教えるかたわら、雅印はその作品にふさわしいものが必要と考えていました。そのこだわりは、知り合いの印章店に習う前から、清書を評価する際に捺す印を自己流で作っていたほどです。
ところが晩年、弟子にこう話したといいます。
「篆刻は私も大好きでね、若いときから興味を持っていて、下手ながら作ったりしたものだが、トンとやらなくなってしまった」
遺品である「篆刻箱」を見てみると、一つひとつ柔らかな紙に包まれて、約40個ほどの作品が並んでいます。中には竹や木のものもあり、印刀・印床・朱肉も吟味して揃えてあります。その他、新しいデザインの型紙、制作中のもの、真新しい印材もあります。
多忙ゆえに「トンとやれなかった」とはいえ、寸暇をみては彫りたかったにちがいありません。
尺八 Shakuhachi
丸山敏雄は生涯に渡って尺八に親しみました。
郷里の旧制築上中学校に奉職時代、同僚の教師に教わったのがそのはじまりです。琴古流で、なかなかの腕前に達したといいます。妻・キクも琴をたしなみ、生田流の名手といわれた腕前でした。
敏雄が30歳のとき、勤務していた同中学の職員たちとの間で「睦会」という音楽サークルが生まれました。その世話人兼、代表者を務めた敏雄は、それぞれの家族を自宅に招き、定期的な家庭音楽会を催しました。敏雄の尺八、キクの琴。仲睦まじい合奏が聴かれたといいます。
舞 Dance
写真は現存するアルバム中で最も珍しいシーンといえる1枚。
昭和25年5月5日、敏雄58歳の誕生祝賀会の一場面です。弟子たちも総出演して、それぞれ余興を振る舞ったといいます。
主役自らは、妻(背後)の詩吟とともに剣舞「川中島」を初披露。決して舞が得意だったわけではなく、「苦手に取り組む」を宣してのチャレンジでした。
鉢巻をし、木刀を腰に差し扇子を持って、にわか芸ながら懸命に舞い、集まった人々を楽しませました。「余興のようなことにも全力を尽くせ!」が敏雄の口癖だったといいます。
謡曲 Sing
まだ郷里の八屋小学校に奉職していた23歳のとき、町の眼科医の強い勧めで、その人に習い始めたのが謡曲です。流派は宝生流。その後入学した広島高等師範学校では、奇遇にも校長が宝生流の大家でした。恵まれた環境で集中して勉強できた敏雄は、ついに級友たちへの指南役を務めるまでになりました。
晩年は、親しい同好者と共に、市川新世会館(千葉県市川市真間にあった、敏雄が創作に打ち込んだ場所)でしばしば素謡の会を催しました。
鰻釣り Fishing
敏雄の唯一のかくし芸は意外にも「鰻釣り」でした。
方法は穴釣りという独特のもので、細い竹の先端に針を付け、餌のミミズを刺して、岩陰の穴に突っ込みます。ミミズが竹棒を動かすうちに、食いついてきたらすかさず引き上げるのです。
のち、長崎、広島、大阪、奥多摩でも、それぞれの地で鰻釣りを楽しみました。